放送大学の笠原潔先生が10月28日に亡くなられた。今日お通夜に行き「ご関係は?」と聞かれて迷う。師弟ではないし、図書館員と利用者という側面もあったが、研究会でというのが一番近いだろう。研究といえるほどのものは何もないのだが。
私のメールボックスには30数通の先生からのメールが残されている。きっかけは「日本にダルシマーは来たのか」だった。天正遣欧少年使節がダルシマーを弾いている絵を見たという話を2人の人から聞き、そのあたりの時代のことを知りたいと思ったとき、洋楽流入史研究会と出合った。もちろんそれ以前から先生のことは知っていた。昭和の終わりごろ、名古屋で「孔子の音楽論」に関する研究発表を聞いたのだ。それは衝撃的だった。私にとっては未知の分野で、少し聞いただけで理解できるはずがないのに、その発表の間にすっかり理解させられた気になったのだ。それは初めての体験だった。何だろう、語りの鮮やかさなのか、構成の問題なのか、すっかり研究発表のペースに乗せられたというのか。もちろん今となっては何も覚えていない。 私がダルシマーに注目していることをお知らせすると、すぐに先生は返信を下さった。珍しいものにこだわる変な人間がいると思ってくださったのだろう。何か類似する楽器を見つけるとすぐに教えてくださった。時には「これは弦をたたくのではなく、はじく楽器じゃないかなあ」と思うものもあったけれど、とにかく一次資料をたくさん読んでいらっしゃるし「女子十二楽坊が流行って、ダルシマーの説明がしやすくなったよね」と言うように、ダルシマーが何かもよく理解されていたので、私には願ってもない情報源だった。 情報源などと書くと、私が一方的に情報をいただくだけのような印象になってしまうが、時には私が情報を提供することもあった。ふとした思いつきをメールに書いたとき、「ンガッ?!」という件名の返信が届いたことがある。本文にも「ンガッ?!というのが正直な反応です」としか書いてなかったが、これって何かすごいヒントになったってことですよね、先生? ある年は、私の勤務の関係で、私の出勤時間と週1度の先生の出校時間が一緒になってしまい、毎週のように同じ電車に乗り合わせていたことがある。それは楽しいおしゃべりのひとときだった。丁度先生が幕末の居留地で演奏された曲を調べていらした頃で、いち早く曲目を教えていただいたりした。国際会議の予稿集を探しているとお話ししたときには、すぐ知り合いの方に尋ねてくださって私はコピーを入手できたが、そのとき相手の方に私を「友人」と紹介してくださっていたので私はひそかに「キャ!おともだちだ」と喜んだものだ。 癌がみつかり手術をされた後もメールのやりとりがあった。退院されていたタイミングもあったのだと思うが、おしゃべりと同じ調子のメールが届いていたので、まだしばらくは研究を続けられると思っていたのに。 いくつか、先生から与えられた宿題を私はまだこなしていない。いろいろ教えていただいているのに、まだ理解できず整理できてないことも多い。今年はどちらかというと演奏をするための準備に力を入れてきたような結果となったが、また調査を再開して、与えられた宿題の答えを探し出したいと思う。
by yt-aoki
| 2008-11-03 23:09
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